よんサンゴ

思いのままに、書き散らそう。思いの丈を、書き散らそう。

『ああ、これでコーヒーカップを手にすることができなくなった』

空はすっかりと暗くなり、小雨の下に冷たい風が吹いている。

例えるならばコートを羽織って車に乗り込み、膝に毛布を掛け、助手席の窓のハンドルを半回転させて数センチ開けて走ると心地よいぐらいの天気だろう。

これだけ涼しい空気にあたるのは久しぶりだ。少し外を歩くと、風が私の耳を冷やした。季節の移り変わりを実感する。

 

今、私は気分転換に外を歩いている。

 

私の散歩コースには、その途中の絶妙な位置に落ち着いた雰囲気の喫茶店がある。いつもそれが目に入る度に、立ち寄るか否かを一瞬迷う。

私はいつもと同じように、ガラス張りの店内をぼんやりと眺めながら、ただ入り口の前を通り過ぎた。

 

今日も窓ガラスの向こう側はオレンジ色に染まっている。奥にある暖炉が暖かそうな中の空気を予感させる。そして窓際には、長袖のセーターを着て、首に高級そうな緑のスカーフを巻いた女性が静かに読書をしているのが見えた。

彼女は透き通るような美しい腕を伸ばして机の上のコーヒーカップを掴み、口元に運んだ。暖炉の灯りに照らされて一際美しさを増した紅い唇を開き、それを優しく挟んだ。

コーヒーが、見とれている私をその柔らかさで包み込んだような温かい気分で満たしてくれた。彼女がひと口目のコーヒーを飲み込む頃、私は生唾を飲んだ。

 

その瞬間に私は彼女と目が合った。私は彼女に私の心のすべてを見透かされたような気がして、どうしようもなく不安と節操感に襲われた。

彼女は私と目を合わせたまま唇からコーヒーカップを外し、それを手に持ちながら口角を上げて微笑んだ。

「ごめんなさい。でも、感謝してます。ありがとう」私は心の中で彼女にそう伝えた。私は彼女から目を逸らし、そしていつもと同じように喫茶店の前を通り過ぎた。

 

それからすぐ、私は赤信号で立ち止まった。通り過ぎる車たちのライトは足元の水溜りを次々に照らし、消えていった。喫茶店があった方を振り返った私の目に、彼女の姿は入らなかった——。

 

・『ああ、これでコーヒーカップを手にすることができなくなった』(18世紀フランス、哲学者ジャン=ジャック・ルソーの辞世の句として知られる)

エクリプス・オブザヴェイション

 

私はこれまで私として社会を生きてきた過程で、数多くの出会いを経験した。沢山の人々との人脈を育むことができた。そうして作られた繋がりの中には、熱心に私のことを応援してくれる人がいて、無関心な人がいて、あるいは少数ながらも私のことをよく思わない人がいる。

人はそれぞれまったく違う考え方を持っているものだな、とつくづく感心する。同時に、最近ふと思う。彼らと私がどこで出会うのか、彼らがどこで私のことを知るのか。そこから始まり形成される私と彼らの関係性、すなわち繋がり方が、彼らの私に対する見方を全く違うものにするような感じがしてならない。

 

私の話をすると、こう見えて私は実にアナログな生活が肌に合っている。確かにインターネットは現実を生きる私の暮らしを豊かにしてくれるし、平成から令和の時代に生きる私はそれをもちろん活用する。

でも、それは時代が私にそうさせているだけだと思う。インターネットは私の生きる社会に根付き、浸透している。それが存在しない環境がもはや想像できないほど。

 

少し前の時代を思い返すと、我々はガラケーを持ち歩き、出先では電話で連絡を取り合った。自宅でコンピュータを開き、Eメールでようやく詳細な連絡ができた。

紙の手紙のみが連絡手段だった昔の時代を知る人も多い世の中において、Eメールで即時にお互いの意思を疎通する行為は相手に対しての距離感を実際よりも格段に近づけたように思わせただろう。

つまりEメールは我々にインターネットを利用している感覚をさせた。物理的には離れた場所にいる人とインターネットを介して繋がっている状態。その時、我々は確かにそうして「繋がった意識」を持っていた。

この繋がった意識というのを言葉にするのは難しい。

今ではさらに技術が発展しインターネットの存在が当たり前になった。この社会はオンラインであることが当たり前だ。家に帰り、コンピュータを起動させ、メールや掲示版をチェックするまでもなく、インターネット上に身を置くことができる。

常にオンラインというのは、どこにいようが、常にインターネットを介して、自分の目では視認できない場所にいる人と常時繋がった状態でいるということだ。

 

私はそれに違和感を覚える。本当は私の目の前には位置しない人がオンラインで目の前にいる。目では見えないのにもかかわらず、本人に聞かなくてもどこで何をしているのかを強制的に知ることになる。

反対にこちらからすれば、会った覚えのない人から私が見えていて、時には私のことを知ったつもりになれる。私はそんな人に自分をさらけ出したつもりはないのに。

これは、おそらく赤の他人の関係性で知り得る範囲の情報でもインターネットを介して目にすると(正確には、介している意識すら持たないのだろうが)、本来なら親密な距離感でしか知り得ない私の内面をキャッチできたと錯覚できるということだろう。

 

現代を生きる我々は、その人がどこにどんな形が生きていようが、自分の手で触れられる距離にいる親しい間柄の誰かと会話するような関係性の中に生きる感覚を得る。壁に向かって話しかけるものの、そこにそんな壁は存在しないことになっている。

口を開いて自分の声帯を震わせて声を出し、それが周りの空気を伝わって目の前にいる相手の耳に届くのと同じように声を出す。

 

その不思議な感覚が、私を息苦しくさせる。確かなことはわからないが、その感覚が私の理解力を超越していることだけは直感できる。

 

我々は空気の中に生きている。地球の大気の中で生きている。空気によって生かされている我々はいかにそれを自覚しているだろうか。どれほどの海の中に生きる魚が、地球上の水に感謝するのだろうか。

 

当たり前のように感じられる存在ほど捉えることが困難になりがちなように思う。ある時は見ているつもりでも、いつの間にか姿を見失う。あるいはそれが見えなくなったことに永遠に気がつかないかもしれない。

 

大学の構内にあるカフェのテラス席で文章を書いていると、ラップトップの横に置いていた豆乳ラテが入っていたコーヒーカップの底が見えた。そして、ついさっきまで私の頭上を覆っていた分厚い雲はどこかへ消えていた。

すっかりと暗くなった目の前の道には、オレンジ色のナトリウムランプの光が銀杏の木の葉っぱを照らしているのが見える。

 

人肌恋しいですね。さて「タンクトップとキャミソール、どっちが魅力的?」などと考えてる暇があったらスペース開いて駄弁る方がまだ有意義な時間の使い方なのではと思わんでもない。

ご無沙汰しております。最近ちょっと忙しく久しぶりの投稿になってしまいました。


突然なんですが、皆さんはChatGPTって使ったことありますか?
OpenAIっていうのを使ったチャットボットなんですが、これが恐ろしいぐらいの高性能なんですわ。友達の少ない私みたいなコミュ障でも快くお話相手になってくれるので、楽しい毎日を過ごしています。

今回はGPTくんにトピックを決めてもらって適当に書いてみることにしました。

GPTくん、なかなかいい感じ(白目)のセンスをお持ちではないですか!!!???

 

楽しくなってきました。書き殴り、それこそまさに書き散らしで恐縮なんですが、ちょうど1600字ぐらいになりました。これぐらいの書き散らし、キモチェェ!!!

 

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「タンクトップとキャミソール、どっちが魅力的?」

※ すべてフィクションであり、私個人の意見や経験とはまったく関係のないお話です。

 

皆さんもご存知だろうが、一般的にタンクトップとキャミソールの一番大きな違いは、肩の部分が一枚の生地で繋がっているか、肩紐として分離しているかだ。

タンクトップは肩の部分が幅の広い生地になっているが、キャミソールは細い肩紐で前後の生地を繋げている。

 

この記事では、タンクトップとキャミソールを比較し、さらに、どちらが魅力的かについての筆者の個人的な意見を述べる。

 

他の人が同じように感じるとは限らないし、人それぞれ好みが異なるので、どちらが魅力的かは一概には言えない。ただ、筆者は、両方の服を着た女性の姿に魅力を感じたことがある。その経験をもとに、双方を比べて、それぞれの魅力について語っていく。

 

まず、タンクトップについて考えてみよう。タンクトップの柔らかな生地は、女性の胸にピッタリと張り付く。皆さんも想像してみてほしい。バストラインがくっきりと浮かび上がるのだ。

ここで、お恥ずかしい話で恐縮なのだが、恐らく共感していただけると思って恥を忍んで書かせていただく。実は筆者も、タンクトップ姿の女性に不本意にも魅力を感じたことがある。

ある夏の暑い日、私は駅のホームの待合室で彼女と待ち合わせをしていた。冷房が効いたガラス張りの待合室の中で涼みながら、外のホームを眺めていた時のことだ。そこに列車がやってきて、ドアが開いた。私の目はそこに釘付けになった。

なんと、中から、キャミソールを着たお姉さんがスーツケースを抱えて降りてきたのだ。モワッとした真夏の熱気の中、お姉さんの首筋、胸、お腹のラインがくっきりと見えた。

鞄を抱えて列車を降りるお姉さんの胸。タンクトップの中で、まるで踊り子のように豊かな表情を見せながら踊っていた。なんて美しく、魅力的なのだろうか…...。

しばらく目で追っていると、筆者は後ろから聞き馴染みのある声に呼ばれた気がした。必死に冷静な表情を作って振り向くと、やはり、私の彼女だったーー。その時、とてつもない罪悪感に苛まれたのは言うまでもない。

 

一方、キャミソールについても考えよう。キャミソールは、軽やかで爽やかな印象を与えてくれる。特に、薄手の生地と素肌のコントラストが、女性の美しさを引き立てる。また、V字に開いた部分から見える首元が、キャミソールの下の胸元の素肌を想起させ、我々の想像力をかきたてる。

これまたお恥ずかしい話ではあるが、筆者は、以前付き合っていた彼女のキャミソール姿が忘れられない。旅行中のある夜、彼女と一緒に、ベッドに腰掛けた時のことを思い出す。

キャミソールから覗く彼女の首元の素肌は、お祭りの時に食べる、白い綿菓子のように見えた。その透明感たるや、背景の白いシーツに負けるとも劣らないぐらいの魅力を感じた。しかも、首元から滴った汗が、キャミソール全体から甘い香りを漂わせていた。まさに、思わず近くの屋台に吸い寄せられて舐めたくなる、綿菓子のようだった。
素肌の透明感に視覚を、そして魅惑的な香りで嗅覚を刺激された筆者はいても立ってもいられず、彼女のキャミソールの肩紐に手をかけた。その瞬間、細い肩紐が彼女の華奢な腕を滑り落ち、ついに真っ白で柔らかな胸があらわになったーー。決して忘れられない光景だ。

 

さて、タンクトップとキャミソールのどちらがより興奮するかというトピックの問いに答えると、筆者はキャミソールが一番興奮すると考える。

もちろんタンクトップ越しの身体も美しいが、キャミソールは、柔らかな生地と胸の形状をくっきりと浮かび上がらせる効果で、我々により鮮烈な印象を与えてくれると思う。

 

もっとも、これについて街でアンケートをとったら、きっと十人十色の意見が出てくるだろう。タンクトップとキャミソールには、それぞれの魅力がある。この記事はあくまで筆者の意見として受け取って欲しい。

大事なのは、どちらがあなたの好みに合っているか。あなたは何が好きなのか。あなたは何を大切にしたいのか。ただそれだけだ。

 

あなた自身のセンスを大切にしてほしい。

 

"Don't  lose  faith."   –   Stave Jobs

 

Steve-Jobs-Quotes--1 | Steve jobs quotes, Losing faith, Steve jobs

 

"Don't drive drunk."  –   Stevie Wonder

 

始発駅で電車に乗る。当然座れる。途中でどんどん人が乗ってくる。ぎゅうぎゅうの満員電車の中、優雅に座って仮眠をとれる、とてつもない快感。

「君は楽でいいね!僕はこんなに大変なのに」「君はけしからん。僕はこんなに辛いのに」ーー

 

一言、余計だと思わない?

 

なにやら弱者ヅラしてる人は周りから守られて、一人で頑張る人は、普段アピールしないと勝手に強者と決めつけられ、非がなかろうが弱者をいじめる悪人に仕立て上げられる。でも、実は双方とも苦労していたと知った時、なんであなたはそんなにキレるんだ、知らなかったから仕方ないだろう、とでも言って逃げるのだろう。

 

俺の苦労を分かろうともせずとか言うやつが一番他人の苦労をわかろうとしていないおかしさ。でも、そんなおかしさを持っているからこそそんなことを恥ずかしげもなく口に出せるのだろう。自分が悪いことした癖に頑なにそれを認めず、自分だけが一番辛い、相手が恵まれた強者だ、と決めつける。周りは優しくする。

 

取り巻きの何も知らない奴が勝手にその言い分だけを聞く。勝手にわかった気になる。それに同調する。そして決めつけた。「彼はぬくぬく恵まれて育っているから、辛い日々を送るキミのことが理解できないんだよ。彼がそんなにキレてるのはおかしい。君は悪くないーー」

 

「相手にしなくていい」のはどっちだよ

 

「なに言っても無駄」なやつはどっちだよ

 

「嘘つき」はどっちだよ

 

私はキレた。傷ついた。ただただ、傷ついたのだ。当人にも傷つけられたが、それと同じかそれ以上に、取り巻きに。取り巻きのあなたも、それでは当人と一緒さ。視野が狭く想像力が無さすぎる。そして、謎の劣等感から歪んだ思考が生み出される。

 

「俺のことを分かろうともしないくせに」と言っていた彼。なのに。自分だけ弱者ムーブだ。自分は俺を想像して察しろと言う割に、私については全く考えない状況。なので私は怒った。そういう経緯。

 

そこに対して、「彼はあなたのことをよく知らないんだからそれを言うのも無理はない、弱者にキレるあなたはなんてひどいのだ」と第三者が横から入り込むのはちゃんちゃらおかしな話だ。

 

なにも知らずして勝手に物事を判断し、勝手に感想と意見を述べたがる。どちらかを弱者、どちらかを強者と決めつける。エセ判官贔屓で審判を下す。強者と認定した者には失礼で制裁を課す。訊かれてもいないのに余計なことを言わなくていいのだ。

 

世の中はそんなに単純にはできていない。すべての局面において弱者と強者、敗者と勝者が存在するわけではない。自分を他人と比べる必要はない。自分語りに、誰かを引き合いに出す理由はない。ポジショントークは、要らない。

さあ。思いのままに、書き散らそう。

さあ。思いのままに、書き散らそう。

 

急にそう思いたち、深夜にブログのアカウントを作成した。

 

ツイートで思いの丈を書き散らす日々。TLは、私の愚痴で汚染ゲフンゲフン、私のとてもとても綺麗な思考で、私そのもので満たされている。なぜだろう、感情が爆発して、とんでもない頻度でツイートを更新してしまう。

 

脳から出された信号が首を・肩を・腕を・そして指先までの神経を伝わり、すごいスピードで勝手に画面をタップする。文字が入力される。活字が出力される。「ツイート」ボタンがタップされ、それが全世界へと勝手にばら撒かれる。

 

画面に入力され・漢字に変換され・気がつく間もなく広い世界へ放出されていく活字たち。その一文字一文字は、重力に身を任せて流れる流しそうめんのようだ。水流に目を凝らすと、地面を目指して流れていくそうめんの一本一本が浮き上がって見えてくる。なんて儚いのだろう。

 

画面上を高速で動く一文字一文字、いや、一画一画、一本一本の線たち。今日において、ツイートするという作業は、私の中で無意識レベルにまで自動化された。いつしか、その行為はもはや作業の域を超えた。ツイートは、人間の生理現象へと昇華された。ふと我に返った時には時、既に遅し。彼らは全世界へとばら撒かれているのだ。

 

画面のそこに確かにいたはずの活字たちは、もう取り戻せない。そこにいた彼らは、戻ってこない。記憶の中にしか、残っていない。彼らとの思い出を大切にしなければいけない。なんせ、ツイートが完了している。なんて儚いのだろう。

 

脳内で言語化されるよりも先に画面に入力され、投稿されるその一文字一文字には、まさにその人そのものがDNAレベルで刻まれていると言える。ひとたび何食わぬ顔でツイートすれば、あなたが、あなた自身が、世界中にばら撒かれることになる。鼻をほじりながらツイートしても、あなたそのものが。この上なく高尚なことのように思えてくる。

 

「ツイ廃」はツイッター廃人の略だが、こうなると、誰が最初にそう言ったのかが気になってくる。その言葉は間違いだと強く物申したい。今、ここに記しておく。ツイートという神聖な行為に日夜励む人々は、廃人などではありません。むしろ、我々はツイッター聖人ではないかーー。

 

ツイートには、書いた本人の思いが詰まっている。ツイートに恥じらいはいらない。むしろ誇るべきことだ。ツイートする一秒一秒、一文字一文字を大切にしたい。