よんサンゴ

思いのままに、書き散らそう。思いの丈を、書き散らそう。

エクリプス・オブザヴェイション

 

私はこれまで私として社会を生きてきた過程で、数多くの出会いを経験した。沢山の人々との人脈を育むことができた。そうして作られた繋がりの中には、熱心に私のことを応援してくれる人がいて、無関心な人がいて、あるいは少数ながらも私のことをよく思わない人がいる。

人はそれぞれまったく違う考え方を持っているものだな、とつくづく感心する。同時に、最近ふと思う。彼らと私がどこで出会うのか、彼らがどこで私のことを知るのか。そこから始まり形成される私と彼らの関係性、すなわち繋がり方が、彼らの私に対する見方を全く違うものにするような感じがしてならない。

 

私の話をすると、こう見えて私は実にアナログな生活が肌に合っている。確かにインターネットは現実を生きる私の暮らしを豊かにしてくれるし、平成から令和の時代に生きる私はそれをもちろん活用する。

でも、それは時代が私にそうさせているだけだと思う。インターネットは私の生きる社会に根付き、浸透している。それが存在しない環境がもはや想像できないほど。

 

少し前の時代を思い返すと、我々はガラケーを持ち歩き、出先では電話で連絡を取り合った。自宅でコンピュータを開き、Eメールでようやく詳細な連絡ができた。

紙の手紙のみが連絡手段だった昔の時代を知る人も多い世の中において、Eメールで即時にお互いの意思を疎通する行為は相手に対しての距離感を実際よりも格段に近づけたように思わせただろう。

つまりEメールは我々にインターネットを利用している感覚をさせた。物理的には離れた場所にいる人とインターネットを介して繋がっている状態。その時、我々は確かにそうして「繋がった意識」を持っていた。

この繋がった意識というのを言葉にするのは難しい。

今ではさらに技術が発展しインターネットの存在が当たり前になった。この社会はオンラインであることが当たり前だ。家に帰り、コンピュータを起動させ、メールや掲示版をチェックするまでもなく、インターネット上に身を置くことができる。

常にオンラインというのは、どこにいようが、常にインターネットを介して、自分の目では視認できない場所にいる人と常時繋がった状態でいるということだ。

 

私はそれに違和感を覚える。本当は私の目の前には位置しない人がオンラインで目の前にいる。目では見えないのにもかかわらず、本人に聞かなくてもどこで何をしているのかを強制的に知ることになる。

反対にこちらからすれば、会った覚えのない人から私が見えていて、時には私のことを知ったつもりになれる。私はそんな人に自分をさらけ出したつもりはないのに。

これは、おそらく赤の他人の関係性で知り得る範囲の情報でもインターネットを介して目にすると(正確には、介している意識すら持たないのだろうが)、本来なら親密な距離感でしか知り得ない私の内面をキャッチできたと錯覚できるということだろう。

 

現代を生きる我々は、その人がどこにどんな形が生きていようが、自分の手で触れられる距離にいる親しい間柄の誰かと会話するような関係性の中に生きる感覚を得る。壁に向かって話しかけるものの、そこにそんな壁は存在しないことになっている。

口を開いて自分の声帯を震わせて声を出し、それが周りの空気を伝わって目の前にいる相手の耳に届くのと同じように声を出す。

 

その不思議な感覚が、私を息苦しくさせる。確かなことはわからないが、その感覚が私の理解力を超越していることだけは直感できる。

 

我々は空気の中に生きている。地球の大気の中で生きている。空気によって生かされている我々はいかにそれを自覚しているだろうか。どれほどの海の中に生きる魚が、地球上の水に感謝するのだろうか。

 

当たり前のように感じられる存在ほど捉えることが困難になりがちなように思う。ある時は見ているつもりでも、いつの間にか姿を見失う。あるいはそれが見えなくなったことに永遠に気がつかないかもしれない。

 

大学の構内にあるカフェのテラス席で文章を書いていると、ラップトップの横に置いていた豆乳ラテが入っていたコーヒーカップの底が見えた。そして、ついさっきまで私の頭上を覆っていた分厚い雲はどこかへ消えていた。

すっかりと暗くなった目の前の道には、オレンジ色のナトリウムランプの光が銀杏の木の葉っぱを照らしているのが見える。