よんサンゴ

思いのままに、書き散らそう。思いの丈を、書き散らそう。

さあ。思いのままに、書き散らそう。

さあ。思いのままに、書き散らそう。

 

急にそう思いたち、深夜にブログのアカウントを作成した。

 

ツイートで思いの丈を書き散らす日々。TLは、私の愚痴で汚染ゲフンゲフン、私のとてもとても綺麗な思考で、私そのもので満たされている。なぜだろう、感情が爆発して、とんでもない頻度でツイートを更新してしまう。

 

脳から出された信号が首を・肩を・腕を・そして指先までの神経を伝わり、すごいスピードで勝手に画面をタップする。文字が入力される。活字が出力される。「ツイート」ボタンがタップされ、それが全世界へと勝手にばら撒かれる。

 

画面に入力され・漢字に変換され・気がつく間もなく広い世界へ放出されていく活字たち。その一文字一文字は、重力に身を任せて流れる流しそうめんのようだ。水流に目を凝らすと、地面を目指して流れていくそうめんの一本一本が浮き上がって見えてくる。なんて儚いのだろう。

 

画面上を高速で動く一文字一文字、いや、一画一画、一本一本の線たち。今日において、ツイートするという作業は、私の中で無意識レベルにまで自動化された。いつしか、その行為はもはや作業の域を超えた。ツイートは、人間の生理現象へと昇華された。ふと我に返った時には時、既に遅し。彼らは全世界へとばら撒かれているのだ。

 

画面のそこに確かにいたはずの活字たちは、もう取り戻せない。そこにいた彼らは、戻ってこない。記憶の中にしか、残っていない。彼らとの思い出を大切にしなければいけない。なんせ、ツイートが完了している。なんて儚いのだろう。

 

脳内で言語化されるよりも先に画面に入力され、投稿されるその一文字一文字には、まさにその人そのものがDNAレベルで刻まれていると言える。ひとたび何食わぬ顔でツイートすれば、あなたが、あなた自身が、世界中にばら撒かれることになる。鼻をほじりながらツイートしても、あなたそのものが。この上なく高尚なことのように思えてくる。

 

「ツイ廃」はツイッター廃人の略だが、こうなると、誰が最初にそう言ったのかが気になってくる。その言葉は間違いだと強く物申したい。今、ここに記しておく。ツイートという神聖な行為に日夜励む人々は、廃人などではありません。むしろ、我々はツイッター聖人ではないかーー。

 

ツイートには、書いた本人の思いが詰まっている。ツイートに恥じらいはいらない。むしろ誇るべきことだ。ツイートする一秒一秒、一文字一文字を大切にしたい。